国産の仏壇
手元に置いておいてもインテリアになる漆仕上げの仏壇
小さな仏壇
現代的なデザインの仏壇
生まれ故郷の土や黄泉の国で住みたい土地の土を入れた日本の骨壷
家族で分け合う小さな日本の骨壷
最後は自然に土に還る骨壷
可愛いカラフルな骨壷
シンプルなインテリアBOX
国産の仏壇
手元に置いておいてもインテリアになる漆仕上げの仏壇
小さな仏壇
現代的なデザインの仏壇
生まれ故郷の土や黄泉の国で住みたい土地の土を入れた日本の骨壷
家族で分け合う小さな日本の骨壷
最後は自然に土に還る骨壷
可愛いカラフルな骨壷
大切だった家族
私用には母親の小さな部屋を作りました。
お寺に行く暇もないし・・・・
実家のお墓は遠いところだし・・・・
一緒に暮らしていたネコちゃんや犬くんのためには特別奮発して
部屋を作りました。
仏壇も小さなものでも日本のものがいいかも・・・・
可愛いものがいいなとずっと思っていました。
岡倉天心(覚三)の「茶の本」の「花」のページに人が葬られた亡骸の傍に花の花粉が発見された話が述べられていたと思います。花は、原始から人の暮らしに付き添ってきました。英語で書かれた、日本人の書いた日本文化を紹介した本として有名なものです。彼は次のように言っています。
When we are laid low in the dust it is they who linger in sorrow over our graves.
我々が死んで低く横たわる時、われわれの墓畔を、悲しみながらたもとおるものは花だ。
と言っています。(「茶の本」THE BOOK OF TEA 講談社バイリンガル・ブックス )
花を亡き友のかたわらに飾りましょう。
家族とはなんでしょうか。
どうも私たちは、家族について確たる概念を持っているわけではないようです。
一人一人、家族の概念は別々のもののようです。
大学の研究機関の雑誌の中に次のような一文がありました。
エスノメソドロジーの 知見に基づき社会構築主義の立場をとる社会学者グブリアムとホルスタインは、家族とは何かを包括的に把握できる視座は存在しないということを次のように表現している。
友だちを家族と呼ぶ人もいた。ペットを家族と呼ぶ人もいた。多国籍企業を家族と呼ぶ人もいた。逆に、妻や子ども、両親を家族と呼ぶのを拒む人もいた。誰が正しいのだろうか。ある人たちは、自分たちは同じ家に住んでいるから、自分たちが本当の家族かどうか他人よりよく分かると述べた。また、ある人たちは、自分は世帯のメンバーでないからこそ、家族についてより客観的に知っているのだと主張した。(2)
((2)グブリアム&ホルスタイン 1997、11頁。)
家族という概念を何が支えているのか ― 補完性の原理を経由して 奥田 太郎
南山大学社会倫理研究所
社会と倫理 第 30 号 2015 年 p.91―103の一部分
葬儀の形は、送る人が決める?逝く人が生前決めるのでしょうか?さまざま。
現実的には、生きている残された人の気持ちや経済的な背景によって決められることが多いのでしょう。
年齢からその選択される形を考えてみました。
送る側が
20代〜40代: この人たちの生活環境の中には、お寺などとの関係は薄く、親類縁者との付き合いも薄いと思われます。自分たちの日々の暮らしの中であまり関わりのない出来事です。自分の立ち位置を決る必要もありません。お寺との関係を絶っている世代です。もちろん墓はいりません。
50代〜60代: 20代〜40代とそれほど違うとも思えないのですが、過去のしがらみを煩わしく思う人たちが多いのかもしれません。人付き合いの中で葬儀などは日常的なことではありません。お寺との関係を絶ちたいのですができない。墓の面倒は見たくない。この年代の人々がこれからの送り方を変えていく世代。
70代以上: 旧来の形に頼らざるおえない。パーセンテージは少ないのですがお寺との関係を絶ちたいができない。墓の面倒は見たくない。
もちろん、地方都市で生活する人は、全ての年代で旧来の形の中でその時間の流れに従う人が多いのでしょう。
統計を取ったわけではないので、世の中の流れをイメージで捉えているに過ぎないのですが、お寺がマンション形式の墓を分譲したり、都会に住む息子や娘が親や先祖の墓に出向かないだとかいう話は、これらのことを実証するエピソードでしょう。
◉読み物1
日本書紀、風土記などを引用しながら日本人の人を葬る形について言及しています。
中山太郎 著
中山太郎は、明治期の民俗学者で、青空文庫で読むことができます。
◉読み物2
「葬制の沿革について」
日本の民俗学の創始者、柳田國男の著作です。
J-STAGE(論文など、学術的な研究をみることができるサイトです)で検索すれば読むことができます。
◉いくつかのテーマを掲げる。深く考えること。少しずつこの方針に従って書き加えていこう。
1、人の死に対する敬う心
2、世界の葬儀の形から、葬儀の本質を考える
3、南洋の風葬、鳥葬
4、これが普通だと、すり込まれた日本の葬儀
5、宗教者は、本来、人を救うものだった
6、寺や神社は、葬儀の場所ではなかった
7、素直な気持ちで死んだ肉親を近くに置いて、思い出すことの意味
8、親鸞、法然も道元も空海も人を弔うための宗教者ではなかった
9、読み物的にエピソード的に、でなければ伝わらない
10、証拠を探す
11、特定の宗教者が人の死にどう関わったか
12、多くの宗教者は自らの死と、他人の人の死後の世界について考え尽くしてきたが、形式としての人の死を、どのような形の中に位置づけたか、少なくとも、宗教者らは、もしくは彼らが作った寺や神社は、人を葬る手伝いをして、その対価としてお金をとって、自らの生活の経済を過ごしていたと言う、そういう視点での話題は、これまであまり取り上げられてきた気配がない。
家族の時間
その命が終わった時、残された人々が、その墓や位牌に手を合わせるのは、自分だけの時間。それは自分の人生や亡くなった命の生きていた時間を確認する時。
親類や亡き人、家族や仲間の命と繋がりのある人々と一緒にいる時間は、コミュニケーションの場として価値のあるものです。しかしその時間も、やはり一人だけのもの。あなただけの大切な時間。
宗教も宗派もその時間は関係ありません。
あなただけの時間の中で、かってあなたと関わりのあった命と向き合う時間です。
<生き物の一生>は・・・・
生き物が生まれた時
⇩
子供時代
⇩
青春時代
⇩
壮年時代
⇩
老年時代
⇩
生き物の死
⇩
残されたものの思い出
現代を生きる多くの人は、自分の何代も前からのしがらみから自由になろうとしているように見えます。もちろん自分のルーツを探したり自分探しに意味を見出すというのも意味のあることです。現代を生きる多くの人の暮らしは、そういう関係を煩わしいと考える人が多くなってきているのも現実。
自分と暮らした家族や動物たちとの思い出を大切にしながら、人と人との居場所、家族だった動物との居場所を自分のために作ろうとしているようにも見えます。
人と人、人と家族だった動物。その終わりの時を迎えたあと、どのように暮らすか。それはそれぞれが決めることでしょうか。
生まれ変われるなら
My Sogi
マイ葬儀
私の葬儀
考えることがある。
人の死の瞬間と儀式は、神聖なもの。